早春の光


青く澄み渡った空を小鳥がくるくると飛びかい、時折思い出したように吹く風が、髪を揺らして過ぎていく。まだ冬の色を残すそれに目を細めながら、律は寮に送りきれなかった荷物を持ってひとりホームに佇んでいた。
両親は元々海外渡航中で、わざわざ見送りに帰ってくるはずもない。祖父母は行きたいと言っていたが、ひとりで大丈夫だからと断った。響也とは、進路を決めた後の言い争いの後、殆ど口をきかなくなっている。今日も部屋にいたようだが、出掛けに声をかけても返事がなかった。友人たちにも、それぞれ自分のことで忙しいだろうから、と出発日のことは話していない。
ただひとり、幼馴染の少女にだけは、出発日だけでなく乗車予定時刻まで教えてしまったのだが。
『私、絶対に響也と見送りに行くから!!』
無理に来なくても構わないと言った自分にそう宣言した幼馴染の姿は、ホームの中にない。響也も頑固なところがあるから、説得するのは難しいだろう。間に合わないかもしれない――だが、それはそれでいいかもしれないと思った。
律自身、この町を出て行くことに寂しさを感じていないわけではない。ただ、これから先に待っているものへの期待がそれに勝っているだけだ。家族や友人は、その小さな寂しさを膨らませてしまうような気がする。迷いなく踏み出すためにも、出発の時にはそこにいてほしくなかった。
だから幼馴染の申し出もきっぱり断ろうとしたのだが、押し流されてしまった。言い出したら聞かない性分を直して欲しいと思わなくもなかったが……断ることは、できなかった。
響也を連れてホームに駆け込んでくる彼女の姿が見られることを、期待している自分がいる。
結局、出立の前に元気な顔を見ておきたいと思うくらい、自分はふたりが心配でたまらないのだ。彼女の――小日向の提案は、その気持ちに沿うものだったから断らなかったのだろう。
夢を追うためとはいえ、この町にふたりを置いていくことは、律が気がかりなことのひとつだった。いつも3人でいることが、当たり前の風景ではなくなっていく。連絡を取ればすぐに会えるという距離から、自分は遠く離れていく。それを不安に思うことはないと、心配する必要はないと、律も彼らもそう思えるほど大人ではなかった。
『――まもなく、電車が参ります。白線の内側に下がって――』
電子音と共にアナウンスが耳に飛び込んできて、律はぼんやりとした思考を止める。時間だ――幼馴染の姿は、まだ見えない。軽く息をつき、律は荷物を持ち直した。
(もう間に合わない、だろうな)
優しい彼女は、『約束したのにごめんね』と泣きながら電話してくるのだろうなと、ゆっくりとホームにやってきた車両に目を向けながら思う。どうやって慰めればいいだろうか――これから起こるであろう事態にどう対処しようかと思案しながら、開いた扉の中へと足を進める。
その時、視界の端に、見慣れた明るい色が揺れた気がした。それは、幼馴染の髪色によく似ていたが――眼鏡のフレームから外れたぼやけた視界だったので、気のせいかと考え直し、律はそのまま空いている席へと向かう。荷物を網棚に預け、座席に腰を下ろそうと扉側に背を向けた――その時だった。
「律くん、待ってー!!!」
名前を呼ばれたことに驚き、反射的に先ほどまでいたホームを振り返る。そこには、息を切らせてホームに駆け込んでくる幼馴染と、彼女に手を引っ張られてきたらしい弟がいた。
思考が停止したまま、走って近づいてくる少女を見つめる。こちらを見ていた彼女の視線と自分の視線がぶつかると、彼女の赤い頬が笑顔の形に彩られた――本当に、彼女は弟を連れてきてしまった。
「小日向……」
ひと呼吸置いて、その音だけを呟く。呆然としている自分には気づいていないのか、それとも時間がないからなのか、小日向は、彼女にしては珍しい速さで喋り始めた。
「律くん! いっぱいいっぱい勉強して、また綺麗な音聞かせてね! 律くんの演奏聞けるの、私も響也も楽しみにしてるから!」
「おい、ちょ、かなで」
「お祖父ちゃんも『頑張ってやってこい』って言ってたよ! それからそれから――」
「おい、かなで! 勝手にオレまで一緒にすんな!」
「響也は黙ってて!」
一方的に話し続ける小日向に響也が口を出し、そのまま口喧嘩とも言えないような言い合いが始まる。いつもの調子で会話をするふたりに言葉を挟むことができず、律はただ黙ってその様子を眺めていた。発車のベルが鳴って、はっと我に返る。小日向も、響也と言い争いをしている場合ではないと気づいたらしく、慌てて律に向き直った。
「向こうに行っても、メールとか電話とかしてね! お休みの時には帰ってきて、また一緒に演奏させてね! ――いってらっしゃい!」
閉まりかけた自動ドアの向こうで、かなでが満面の笑顔を浮かべる。それを見た瞬間、胸に温かい雫が落ち、自然と顔が綻んでいくのを、律は感じ取っていた。
「――行ってくる」
動き出す車両を見て大きく手を振る彼女と、その向こうでばつが悪そうな顔をしている響也に向かって呟く。胸の片隅にある寂しさがなくなったではない。だが、彼女がくれた言葉を思えば、その寂しさもいつかは消えるだろう。『いってらっしゃい』――それはつまり、いつでも帰ってきていいということ。ここを遠く離れても、帰る場所はちゃんとあると、彼女は示してくれた。
もう大分遠くなってしまったホームの方向を見て、まぶたを閉じる。
『――いってらっしゃい!』
耳の中でこだまする声と、彼女の笑顔と、弟の姿と。早春の柔らかな光に彩られた光景は、しっかりと律の脳裏に焼きついていた。


End.

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あとがき

律の出発のお話でした。
慣れない場所でひとりでいる律の心の支えは、大きな夢と彼らの存在だったらいいなーと思います。
2011.9.10.Update


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